まだねむれない

日々のことと小説

犬のフランネル、夜の散歩(小説)

 地鳴りが聴こえて、飛び起きるとダニエルのイビキだった。また晩酌しているうちに寝落ちたのだろう。メガネはずり落ち、服が捲れて、腹が出ていた。暗い部屋のなかでテレビだけが煌々と光っている。ネットフリックスで配信されているシリーズもののドラマが垂れ流しになっていた。観客がいなくても勝手に物語は進むので、フランネルは近くにあったリモコンの停止ボタンを鼻で押した。それくらいのことは犬でもできる。

 テーブルには飲みかけのビール、開けっ放しのポテトチップスの中身が散らかっている。食べ切らないからまた湿気ておしまいになる。中途半端で飽き性な性分がこういうところに現れている。それがフランネルの飼い主、ダニエルという男だった。フランネルは袋から飛び出ているポテトチップスを一枚齧る。あまりのしょっぱさにすぐに吐き出す。人間はよくこんなものを食べるなと、フランネルは思う。

 ダニエルの手に握られたスマートフォンが震える。アプリの更新通知だった。わずかな振動にダニエルが無意識に反応する。だが彼は起きることはなく唸りながら、寝返りをうった。寝ているときですら、こうしてお守りのように握りしめているのを見ると、さびしい人だと犬ながらに主人のことが哀れに感じた。ダニエルに連絡をする人間は誰もいないのに。

 スマートフォンの画面には23時47分と表示されていた。フランネルは主人を置いて勝手口へと歩いていく。だらしない主人のせいで3日に一度はフランネルの散歩を忘れるので、こうして自分で散歩に行くことを覚えた。勝手口の鍵はずいぶん前から壊れていて、不用心極まりないがそのおかげでフランネルには束の間の自由が与えられた。主人を置いて、散歩に行くことの気楽さを覚えてからは、むしろ忘れてくれる方がいいとさえフランネルは思っている。

 立ち上がって、前足で勝手口のドアを開ける。夜風がフランネルを出迎えた。その風に誘われるようにして外へ出ていく。澄んだ空気に、枯れ草の匂いが混じっている。生き物たちの気配が濃くなる夜の時間。この時間帯がフランネルは気に入っていた。それはかつてフランネルが野良だったことと関係している。ダニエルに拾われるまでの三年間、フランネルは野良犬だった。ペットショップで生まれて、買われて、捨てられて、また拾われた。犬は群れるものだが、フランネルは変わり者だったため野良の犬たちのなかには入れなかった。群れることにフランネルは関心がなかった。他の犬たちの縄張りを避けながら、フランネルは気楽に野良生活を送っていた。人間とはなぜか仲良くやれたので餌には困らなかった。誰にでも愛想を振りまいていたわけではなかったが、フランネルは体躯も小さく、また顔が可愛らしかったこともあり、人間には特に好かれやすかった。色んな人がフランネルを飼おうと手を差し伸べてきたが、その時のフランネルはまだ野良でいたい気分だったので、地域犬としてのらりくらりとしていた。

 少し歩くと大きな橋が見えてきた。川に橋の明かりが反射して、幻想的に揺らめいている。フランネルはそんなことには目もくれず土手を駆け降りていく。土の匂い、草の青い匂いが夜風に乗ってフランネルに届く。そこはかつてのフランネルの棲家のような場所だった。川の下、わずかに明かりが灯っている。その明かりに近づくとタバコの匂いがフランネルの鼻を刺激した。一人の男が、タバコを吸っていた。段ボールハウスの前に座り込む男はホームレスだった。フランネルが野良犬だったとき、冬の間だけ共に過ごしていた時期がある。馴染みの匂いに、フランネルは警戒することもなく歩いていく。男はフランネルを見て「おお、きたか」と言って、犬の頭を撫でた。無精髭の男は短くなったタバコの火を、地面に擦り付け消した。男の名前はない。昔に名前を捨てたと言っていた。フランネルは彼の横に最初からいたかのように寝そべった。かつての寝床は、かたく冷たかったが、悪くなかった。

 それから何をするわけでもなくただ川が流れているのを一人と一匹で眺めていた。野良のときもそうだった。昔と違うのは男から餌をもらわなくなったことだ。男はフランネルがダニエルの飼い犬になったことを知らない。男の前から挨拶もなしにふらりと消えたことについて、男は何も聞かなかった。フランネルが、再び夜の河川敷に現れたとき男は今と変わらず「きたか」とだけ言って、ただ一緒に川を眺めたのだった。その距離感がフランネルには心地よく、以来、夜の散歩の時は河川敷へ立ち寄るようにしている。

 男が二本目のタバコを吸い終わったところでフランネルは立ち上がり、彼に頭をひと撫でしてもらってからまた夜の街を歩き出した。街へ戻ると、どこからか犬の遠吠えが聞こえる。なるべくその音の方へは近寄らないように、道を選びながらフランネルは歩く。

 フランネルの住む街は比較的、夜になると静かな方だが、中には夜を好んで起きている人間のための店がいくつかある。2番街の路地に入ると、その奥にひっそりとネオンの明かりがと持っていた。ウォーカーという名のバーで、野良の時に何度か世話になっていた店だった。店の近くにいくと、ドアの向こうから笑い声が聞こえてくる。店の前を通る瞬間、ドアが開いた。

「うん?お前、ダニエルの犬っころか」

見上げると、バーの店主が立っていた。そうだというように、目を見ると店主はちょっと待ってろと言ってまた店の中に戻った。

「ほれ、これでも食っていけ」

しばらくして店主が戻ってくると、フランネルの前に皿を置いた。鶏肉を茹でたものだった。野良の時によく食べさせてくれたものだ。それほど腹は減っていなかったが、出されたものは食べる主義だったのでフランネルは遠慮せずそれを食べた。店主は、タバコに火をつけ吸い始めた。ホームレスの男とはまた違う、タバコの匂いだった。店主はフランネルの頭を撫でた。

「お前、久しぶりだなあ。飼い主は元気にしてるのか?」

うぁん、と食べながら返事をする。

「またあいつにも声かけといてくれよ。どうせ碌なもん食ってないだろうしな、連れてきてくれたらなんかメシ作ってやるからよ」

 酒は飲ませないけどな。と店主は言う。ダニエルは酒癖が悪い。酔っ払うと誰彼かまわず絡む。そのくせ、相手にされないと泣き始める。酔いが覚めたら正気に戻って、バツが悪そうに申し訳なかった、と謝る。情緒が安定しない男だ。酒さえ飲まなければ無害な男ではある。ダニエルは昼間はパソコン相手に部屋に引きこもって仕事をしている。一日中、誰にも会わずに過ごすことも多い。フランネルから見ても陰気な男だと思う。だが、この街はその陰気さを受け入れている。地元とはそういうものだ。

 

 

 

 バーの店主に別れを告げて、しばらく静かな街を歩いていると、ふいにバラの香りがした。顔を上げるとライラの(正しくはライラの飼い主の)家だった。ライラはこの家に勝手に住み着いているメスの(自称)野良猫だ。フランネルは彼女のことがあまり得意ではないので、静かにその家の前を通り過ぎようとした。結果的にそれは無駄に終わった。門の前にライラがいた。

「あら変わり者。また家から抜け出したの?」

長い尻尾を揺らしながら、ライラが話しかけてきた。フランネルは無視しようか迷ったが、ライラに噛みつかれたくなかったので、返事をした。返事をした後、変わり者はお前もだろうとフランネルは思ったが何も言わなかった。そっけない返事にもライラは慣れているのか、勝手に喋り出す。街の噂好きのライラはその日あったことをフランネルに報告する。それを聞き終わるまでフランネルは家に帰れない。

「そういえばダニエルは元気?」

噂好きのライラがダニエルの街での評判を知らないわけがない。皮肉だとわかっていたがフランネルはそれなりだと答えた。

「あんたとダニエルはそっくり。さみしがりの目。」

ライラはいつもそう言う。そのことにフランネルは何も言わない。さみしがりかどうかはフランネルにもよくわからないからだ。

ふいに雨の気配がして、ライラに別れを告げた。また遊びにきてね、変わり者。そう言ってライラは門の下を器用に潜り抜けてバラの咲く庭の奥へと消えていった。雨が降る前に帰らないといけない。フランネルは少しだけ走った。

 

 

 

 大雨だったあの日。フランネルはダニエルに拾われた。雨を凌ぐ場所を探しているときに、酔っ払ったダニエルが勝手に抱き抱えて気がついたら家のなかに入れられたのだ。翌朝、ダニエルはフランネルを連れて帰ったことを覚えていなかった。なんだこの犬、と言って頭を傾げていたが、特に追い出すこともしなかった。フランネルも逃げようと思ったらできなくはなかったが、屋根がある生活も悪くないと思い勝手に住み着くことにした。フランネル、とダニエルが呼んだのはいつだっただろうか。家へと向かう道を走りながらライラの言葉を思い出す。さみしがりの目。自分の目がどんな色をしているか、わからない。それがさみしがりの目か確かめようがなかった。ただ、ダニエルの目はいつも曇天の空の色だ。

 

 


 戻ってくると部屋のなかにも雨の気配があった。その気配の元をフランネルは知っている。静かにリビングへ戻ると、まだダニエルはソファで眠っていた。唸るような、啜り泣くような声が聴こえて、近づいてみると男の目にはうっすらと水の膜が張ってあった。唸り声は知らない人の名前だった。その名を呼ぶ姿を、フランネルはたびたび見かける。男に何があったのかフランネルはよく知らない。ダニエルはフランネルに語らない。陰気な男だ。そんな男でも、フランネルの主人なのだ。3日に一度は散歩を忘れるような男だが、餌やりは欠かさない。たまに自分のことを安心毛布が何かと勘違いして酔ったまま泣きつかれることもしばしばあるが、無体を強いられたことはなかった。ダニエルはいつもひとりだ。ひとりでいようとする。その割には街の人がダニエルのことをやたら気にかけていて、そのことにダニエルは気づかない。だから、彼はひとりなのだろうとフランネルは犬なりに解釈している。街はダニエルを愛すのに、ダニエルは街を愛さない。嫌ならとっとと出ていけばいいのに中年と呼ばれる歳のダニエルには、この街の出口がどこなのかもうわからない。どうせまた朝になれば、夜のことなど全て忘れてなんてことないような顔で生きていく。

 


 ダニエルの目尻から涙が一筋流れ落ちる。それをフランネルは舐めとったりはしない。

 テレビは静止画を映したまま暗い部屋のなかで煌々と光っている。正しい夜を迎えるためにリモコンの電源ボタンを鼻先で押す。犬でもそれくらいのことはできる。

 雨の音が聞こえる。この街のすべてがダニエルの夜だった。ダニエルの流す涙で街が濡れていく。

 フランネルのねどこは特に決まっていない。ただ雨の音がする日はダニエルの横で眠るようにしている。